アメリカ暮しの始まり

 第1日目は研究室のmeetingに参加。共同で研究している化学科の人達も来てなかなか活発な印象を受けた。その後秘書さんのMacintoshを拝借し、e-mailを日本のみんなに送り、無事到着の報告をする。Chicagoでの飛行機の乗り遅れの件があったので、全く無事とは言えないかもしれないが。
 日本にいる間に、Dr. Frankelからe-mailで知らされていたが、同じdepartmentに一人だけ日本人がいるという。どこにいるかと思ったら、同じ建物の同じ階であった。笠井さんという人で、会社に10年勤めた後にこちらの修士課程に入ったという話である。私がこちらに来る3カ月前から来ているということで、この後いろいろとお世話になることになる。ところで、笠井さんのKasaiを漢字でどう書くのかはしばらく知らなかった。First NameはToshikazuでこちらの人にはToshiと呼ばせているようであるが、そういえば漢字でどう書くかは未だに知らない。
 まずこちらに来てしなければならないことは、住処を見つけることである。homelessでは暮らせない。ともかく住む家が見つからないことには落ち着かない。こちらの学生やPost-doc、また、笠井さんにいろいろと聞いてみる。Research Scientistの中国人のおばさんや中国人の修士課程の女子学生は$350位の安いところを進めてくれるが、あまり安くて治安もいまいちかなという所は避けようと思った。大学新聞に住宅情報も載っているのだが、ここにあるのはその手の安いところが主であった。外国人とShareして住むというのも、金銭的にも英語の勉強になるという面でもいいかも知れないが、窮屈になるのも嫌かなと思ったし、日本に比べて家賃も高くないこちらでそんなに節約することもないかなと思い、選択枝からは除いた。
 日本にいる間に、北アメリカに住む日本人のメーリングリストを通して、物理学科に在外研究員としてOSUに来ている筑波大学の奥野光先生という方を見つけコンタクトをとっていたので、この初日に会いに行った。Post-docのスイス人のPatrickといっしょであった。6月末には日本に帰国するというので、その後に住処を引き継ぐという選択枝もあったのだ。そこで、その住まいを案内して頂く。家そのものは築20年は経っているかなと思うが、2 bed roomsで、地下室に洗濯機、乾燥器もあるし、窓は二重ガラスになっているし、設備的にはなかなかしっかりしている。2 bed roomsといっても、もちろんそれだけではなく、kitchen、living、diningはちゃんとあるのだから、なかなか広い空間である。大学からは1 mile程。歩いても行ける。雨の日や冬はちとつらいかも知れないが、バスもあるし。
 また、奥野先生にはこの日、for rentの看板の出ている住宅のあるところやUniversity Virrageというアパート団地みたいなところに連れて行ってもらう。University Virrage戸いう名前ではあるが、私営の住宅であった。大学からはやや遠いが送迎のバスが出ている。
 この日もDr. Frankelの家に又泊めていただいた。夕食はメキシコ風。食後に家の周りを散歩しつつ話す。9時位まで日が沈まず明るいのにはなんだか調子が狂う。娘さん二人のうち一人は中学生、一人は小学生。いやー、小さいのに英語ぺらぺらでいいよねーと感じた。まあ、当然といやあ当然なんだけど。日本の数字とその数え方を教えろというので教えた。なかなか覚えが早い。なかなかfriendlyで良い子達である。
 翌日は、Dr. Frankelは時差ぼけもあるだろうからゆっくり寝ているようにという配慮で先に大学に行き、奥さんが子供達を学校に送るついでに私を大学へ送ってくれた。Dr. Frankelの乗用車の他に、大きなワゴン車もあるのだから贅沢である。因にガレージの戸の開閉は自動で、これまたいいやねーって感じであった。Dr. Frankelは、どうも7:30頃には大学に行っているようである。
(June 30, 1997)

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