Tennessee旅行(前編)

 97年の年末はテネシー州に遊びに出かけた。オークリッジのナショナルラボに、知り合いの吉見さんがいるからである。この吉見さん、大学の隣の研究室の助手であるが、私が渡米したちょうど2ヵ月後から来ている。これまでに2回、こちらColumbusに、愛車ムスタングに乗って遊びに来ている。最初は一人で、2回目は彼の日本の研究室の博士課程の学生、野村君と学会に行くついでに立ち寄っている。実は前述の山崎君がこちらに遊びに来たときも、来ないかと誘っていたのだが、彼が風邪をひいていた事と時間的にも都合が悪かったことがあって、実現してはいない。また、Thanks giving dayの連休に、こちらから行こうかと計画したこともあったのだが、日程の都合上、車でなく飛行機で行こうと思ったら、直前ではチケットが$650とえらく高かったので断念したことがある。という訳で、こちらからテネシーに出かけるのはこれが初めてであった。  年末は日本に帰省という気が全く無かった訳でもないが、せっかくだから、こちらの年末年始の様子でも眺めて、ついでに何処かに旅行しようかなと思った。クリスマスには、各家庭の電飾等の飾りはきれいで、また、スーパーにもプレゼント用の玩具、飾り、食材が並び、いかにもクリスマスだなという雰囲気が漂うが、それが終わるとなんだかあっさりしたものである。日本の様な年の瀬の押しつまった雰囲気は無く、忘年会の連発も無いのでなんだか年末のような気がしなかった。元日を迎える深夜にはダウンタウンで花火が上がったりはしたようだが、新年に入ってからはあっけらかんとしたもので、これまたいま一つ実感が湧かなかった。  さて、テネシー行きであるが、大した計画がある訳でなく、とりあえず道を確認し、どこら辺で迎えに来てもらうかを決める。着いたら着いたで先のことは考えることにする。片道にかかる時間は、休みも含めて8時間程見ておけば良いだろうということであった。住んでいた仙台から実家の水戸まで下の道で早くて5時間、混んでいて6時間。仙台への帰りに本屋など立ち寄ってのんびりしていると7時間程かけることもあるから、まあ8時間のドライブもそんなにひどく長いという程でもない。が、その距離約600 km、仙台−水戸の約250 kmを往復しても余る距離である。高速を利用して行くとはいえ、なんだか面倒でもある。が、高速は只だし、ガソリンは安いので経済的にはなんぼでもないし、タイヤも新しくしたばかりだし、車の調子も悪くないのでまあ良いかと。日本で乗っていた軽自動車よりは楽であろう。  確か出発は9時前であったと思う。一応出来れば明るいうちに着きたかったので早めに出る事にした。高速に一旦乗ってしまうと、後は延々アクセルを踏むばかりである。アメリカの車の多くに、ハンドルに付いたボタンで速度の調整が出来るオートクルーズの機能が付いているが、残念ながら私の車にはそれが無い。このオートクルーズ、如何にもアメリカの車社会ではのものだが、日本の車に付いているものもあるのだろうか。自分の車にも付いていたら、この旅、結構楽なのだろうなと思われた。  シンシナチを過ぎケンタッキー州に入り少しすると、やや起伏が大きくなってきたようであった。オハイオはかなり平らで、いま一つ面白みが無いのだが、ケンタッキーでは道を真直ぐに通すために土手を削ったようなところがあり、堆積岩と思われる断層が道の両側に見られた。遠くには山並も続いている。しかし、やった、景色が変ったと喜べるのもつかの間で、後は似た風景が延々と続くばかりである。やや大きな都市で幾つかの路線が入り交じる所がちょっとややこしく、迷わないようちょっと緊張するが、そこを過ぎると後は只ひたすら走るだけである。景色も大きくは変らないので、一人でドライブするのは結構退屈なものである。暫く遠出していなかったので、ちょっと走ってみるのはいいのだが、残り後何時間で到着などと考えると気も遠くなる。  昼食はケンタッキーで取った。ガソリンを補給し、サンドイッチを食べてからちょっと一休み。土産物も売っていたので暫く眺めて時間を潰した。土産物と言っても、日本の様に名産品が並んでいる訳でもないのでちょっと退屈である。結局買ったのは絵葉書位であった。ケンタッキーの文字の入ったトレーナー、T-シャツ、帽子等もあったが、文字はケンタッキーでも名産という訳でもなく、また、作られたのも他の州であったり中国その他の外国だったりするのでいま一つ面白みが無い。キーホルダーとかの小物も置いてあったが、似たりよったりである。そんな中に孫の手もあったのはちと興味深い。アメリカ人も背中が痒くなることもあろうが、あんな人の手の形をしたプラスチックの棒を使うのだろうか。アメリカ製だか中国製だかは確認していないが、なんだか日本の土産物に見かけそうなもので面白かった。後日インディアン(native American)が、トウモロコシの芯に棒を挿したのを孫の手として使っていたということを知った。結構具合がいいらしい。しかし、ちょっと気になって辞書で孫の手を引いてみたら載って無かった。ということは、実際アメリカ人の間に孫の手は普及してはいないということなのだろう。  そしてまたドライブを続けてそうこうする内、ようやくテネシーに入った。やった、あと50と数milesだから1時間程だなと思ったら、何やら渋滞になって前に進まない。事故でも起きたのかなと思ったら、案の定highway patrolの車が横を通りすぎていく。7台程の車が玉突き衝突していたようだ。どうもアメリカ人、車間距離を取らない人が多いので、それがたたったのでもあろう。気を付けて貰いたいものである。結局その渋滞で30分程の足止めを食ってしまった。  事故現場を過ぎて、車の流れもスムーズになって暫く走ると、目的のノックスビルが近づいてきた。いやー随分走ったものよとちらと旅を振り替えるが、頭の中には只走ったという記憶があるばかりである。そのうち目的のEXITを発見し下りるが、道に迷ってしまった。高速を下りてからの道を良く確認していなかったせいもあるが、まあ慌てることもない、距離からすれば着いたも同然、日も未だ明るい。とりあえず公衆電話でもおいてあることを期待して、Brown Squirrelなる大きな家具屋に入ってみた。かなり大きな家具屋で入り口に入ってすぐ座り心地の良さそうなソファーを見つける。お、こりゃあ座って一休みしようかなという誘惑にも駆られたが、目的が違う。電話電話。店員を見つけ聞いてみたが公衆電話は無いという、が、店内のを貸してくれるというので有難く借りる。そこで大体の道を聞いて、吉見さんがすぐ迎えに来られそうな場所に移動して又電話をかける事にする。ちょっと走ったらショッピングモールがあったので、その一角のレストランから電話をかけた。程無くして迎えに来てくれる。いやいやほっとした。家を出てからほぼ8時間経った頃であったろうか。  吉見さんは日本では髭を生やしていなかったが、何を思ったか鼻の下に髭を蓄えていた。日本の感覚からすると怪しげに見えるので、ついパンチョ吉見などと呼んでしまったが、これは失言かも知れない。吉見さんはチャールズ・ブロンソンあたりを意識していたのかも知れないのだから。まあ、それはどうだか分からないが、外国に住んでいるうちに髭を生やしてみるのも一興かも知れないなとは思った。  さて、ようやく到着ということで、とりあえず吉見さんのアパートに向かった。何はともあれ一安心である。帰りのドライブを考えると、また面倒な気もするが、まあそれは後の話ということで。この旅行の続きは後編に譲ることにする。 (Feb 3, 1998)
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