出発の日

 1997年、5月19日、この日が日本を出発した日である。時差の関係の為、Columbus到着も同日である。
 この日は朝早く起きた。いや、前日夜更かししてろくに寝ていなかった。どうせ飛行機のなかでぐうぐう寝ていりゃあいいやねって思って。アメリカの暮らしは1年にはなるので、仙台のアパートは引き払ってしまった。
 この日は5年ほど住み慣れたアパート最後の日であった。以前、仙台に来てから7年の永きに渡り暮らした下宿を出るときには、何だかしみじみとしたものであった。荷物を新しいアパートに送り出してがらんとしたそのたたずまいは、実家を離れ仙台に来たばかりの頃を思い起こさせたし。ところが今回アパートを離れるときにはそんなしみじみとした感慨を抱くほどの余裕がなかった。なにせ今度の引っ越し先は右も左も分からない外国と来ているのだから、未来を案じこそすれ、過去を振り返る余裕はなかったというところだろうか。
 この日の朝、電気、ガス、水道の精算を済ませ、また、不動産屋に鍵を帰して11時57分仙台発の新幹線に乗るというあわただしい予定であった。研究室の李さん、泉屋君に来てもらい、幾つかの荷物を運んでもらった。それまで使っていた布団は李さんに捨ててもらった。電気、ガス、水道の各業者には、10時までには精算を済ませてくれるよう頼んでおいたが、順調にその用事もすんで、不動産屋に鍵も戻せたので、研究室に寄って挨拶をする余裕が出来た。皆に挨拶し、李さんの車で仙台駅に。旅の荷物は大きめのトランク一つ、リュックが一つと肩に書ける旅行鞄が一つであった。
 駅には研究室のみんなが見送りに来てくれた。出張中の橋本先生の奥さんも。ついでにJTBの降矢さんも英語版の航空券の領収書を持って来てくれた。皆に見送りに来てもらうというのもなんだか恥ずかしいものである。去るものはひっそりと独りで・・・、とも思ったが、見送ってくれるのはやはり有難いことである。最近はe-mailなんかで楽に連絡を取り合えるので、そんなに、「もう会わなくなるんだな」といった感じはないのだけど。泉屋君が印刷した蛍の光を皆が歌ってくれる。なんともはや。有難いことではあるがなんとも周りの人達の視線が気になる。見送られる本人としては他人の振りも出来ない。発車のベルが鳴り、いよいよ出発という時には止めの万歳三唱。出征兵士の見送りじゃないんだから・・・。新幹線が仙台を離れしばらくは窓の外を眺めて他の乗客と目を会わせないようにしていた。以前新婚旅行に旅立つ幅崎さん夫婦を、この仙台駅の新幹線のホームで見送ったことがある。クラッカーまで鳴らして。彼等も同様の照れ臭さを感じたことであろう。Just Marriedと書いた紙をトランクを張り付けようと、発車ぎりぎりに新幹線の中に入ったが、この時は危うくドアが閉まって次の駅まで運ばれるところであった。因に、この日仙台駅で買った菓子パン二つと缶のミルクティーを昼食として車内で食べたが、これが日本で最後の食事となったのは何とも情けない。
 東京駅には両親と親戚のおばさん、出張で東京に来ていた橋本先生がわざわざ来て下さっていた。昔のようになかなか帰れず連絡もとりにくい場所にいくという程でもないので、わざわざ来なくてもよいと家の両親には言っていたのであるが。
 さて、その後成田エキスプレスで成田空港に行き、Chicago行きのUAに搭乗。搭乗したまでは良いが離陸までえらく時間がかかっている。荷物の搬入のためとのようなアナウンスがあったかと思う。乗客と荷物の一致のチェックなどに時間がかかっているのであろうか。Chicagoのオヘア空港での乗り継ぎ時間は1時間半しかなく、入国審査もあるし空港はかなり広く国内線のターミナルまでの移動もあるので、あまり余裕がないときいていたから、かなりやきもきしていた。まあ、到着が送れたら次の便に乗ればいいかとも思ったが、なにしろOhio State UniversityでのボスとなるDr. Frankelが迎えに来てくれることになっていたので、Columbusへの到着を遅らせたくなかった。とはいえ、自分がやきもきしてもどうしようもないやと、うとうと始める。時々起きては、おいおい未だかよと思う。どうも1時間半は遅れたようであった。眠っていて、気が付いたときには空の上だったので、実はもっと遅れていたかもしれない。不安を抱えつつ・・・も...ぐっすり寝た。
(June 29, 1997)

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