パーティー
先にウルスラさん、アリファさんの送別会が有ったことを書いたが、その後、ウルスラさん出発の前日、又パーティーが催された。8月22日の事である。この時には、ウルスラさんがいく先の、フランスの大学からOSUに短期で来ている3人程のフランス人も交え、結構賑やかなパーティーとなった。
場所は音楽科の台湾人、シャオフイのアパートである。彼女の名前を漢字で書くと、照恵となると後に聞いた。ウルスラさんの直後にコロンバスを発つアリファさんも勿論参加。この日はそのアリファさんのボスである、物理系の重光教授も一緒に。この重光先生、日本人女性であるが、大学院からずっとこちらにいて、25年になるとか。日本人の年齢は分かりにくいらしく、パトリックは重光先生がアリファさんのボスの教授とは後で聞くまで知らなかったそうである。この時、私は何を持参したのか忘れたが、重光先生は散らし寿司を持参。日本食が有難かった。
シャオフイは音楽科にいるだけあって、ピアノが専門らしいがギターも弾ける。それに合わせてみんなで歌ったり、なんとも賑やかになる。部屋にいろんな民族楽器も置いてあるのだが、私が好奇心に駆られそれを見ていると、よし皆で演奏しようということになり、皆でその楽器、楽器が足りなければ食器を手に手に踊り出すことになった。ちょっと日本のアパートでは出来そうもないが、もう皆どんじゃらほい状態である。日本ではこういう機会が無かったので面白かった。この時の写真を後にシャオフイが焼き増ししてくれたのだが、なかなかいい記念である。
フランス人、ドイツ人となぜか第二次世界大戦の話をベランダで話していた時の事である。中立国スイスのパトリックが混ざってくる。暫く話していると、今度は台湾人のシャオフイが顔を見せる。中立でお気楽なパトリックが彼女も混ぜようと呼び、どっちのサイドだと聞く。うわあ、日本、また立場がややこしくなるかなと思ったら、シャオフイは勿論こっちよと私の腕を取る。当時、日清戦争以後日本に割譲されていた台湾は日本が支配しており、日本側と言えば日本側であるのだが、そんなにあっけらかんと日本側につくとは思っていなかった。パトリックにも意外であったようである。その当時併合していた韓国の人が、こんなにあっさりした態度を取るとは無論思えないし。戦争当時の台湾の様子や現在までの日本に対する感情はどうなっているのか知りたいものである。後に聞いたのだが、このシャオフイの母親は静子といい、祖父が付けたのだとか。反日感情はそれ程でないということだろうか。むしろ、中国の一部とは思っていないと言う事にこだわりがある感じである。中台関係はなかなか微妙だが、個人的には台湾は独立国と看做そうという思いを深めた次第である。
さて、その後フランス人と今度は映画やら哲学やら物理やらの話になる。哲学関係の英語での語彙はないし、というよりも日本語だってあるわけでなし、困った話題になったものだと思った。教養の無さが暴露されそうである。立花隆が文藝春秋に東大生に教養が無いとの話を書いていたが、フランスの大学ではこうだがとフランスの大学を引き合いに出しているところがあった。さて相手はそのフランス人であるから、フランス人全部が教養に溢れている訳でもないだろうが、どうも分が悪そうである。大体、サルトルにしろ誰にしろ、その名前をあちらの発音で言われるとそれが誰であるか分かるまで何回か聞き直さなければならない。哲学者や詩人の名前が分かった時点で、一安心してしまうと言った具合でどうもいけない。更に彼は三島由紀夫についても話しだし、日本人であっても1冊か2冊しか三島を読んでいない私は汗顔の至りである。やれやれ。そのうち彼は幸福観について語りだしなかなか取り止めが無い。しかし彼は、アメリカに来てこういう話を異国人と出来た事が嬉しいと言っていた。まあ喜んでくれるならそれで良かろう、何も言うまい。その口ぶりからすると、普段そんなに哲学的な事を語るという訳でもないようである。結構飲んでいたからそれも手伝ったのだろうか。そのうち、若い学生の物理離れを嘆く話題に推移し、やや取りつきやすく会話も順調になり暫くしたところでパーティーもお開きに近づき、彼との話は終わりになった。英語で上記のような話題で語れなくてもいいから、日本語でもある程度話せる位の教養を身に付けたいものだと思わせられる、そんな会話であった。
その翌日、ウルスラさんはフランスへと発つ為に空港へ行く事となるが、そのお見送りに行こうという事に。その前に時間があるので、オハイオ・フェアを見物に行く事となった。お祭りみたいなものである。鶏、あひる、豚、ラマなど家畜の展示があったり、乗馬の競技があったり、出店や遊園地にありそうなものがあったりと賑やかであった。8人ぐらいであったろうか、それを見物。催眠術のショーが割りと大きな舞台で行われていたがそんなものを見ているうちに見送りの時間となり、皆で空港へ。
その後も色々なパーティーがあったが、この時のパーティーは結構印象深いものの一つである。日本では、知った仲間と飲み屋に行くというのが多かったが、初めて合う人間、しかも多国籍で外人だらけ、というのはなかなか新鮮なものがある。自分は人見知りが激しいという程でもないが、どうも知り合いの少人数で飲みに行くのが落ち着くなと思っていたのだが、パーティーはそういう親交を深める目的もあるけれど、考えてみたら新しい知り合いをつくる為にもあるのだな、と、当り前のようなことに気が付いた。
(Janurary 11, 1999)
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