ウルスラさん
ウルスラさんは物理学科にいたドイツ人のポスドクで、8月23日にコロンバスを発った。歳の頃は30代半ばと思われるが、聞いた事はない。現在は、フランスの大学で勤めている。知り合ったのは、私がこちらに来て直ぐである。1月同居させて貰っていた奥野先生の知り合いで、その奥野先生、ハンス、パトリック、笠井さんと一緒にインドレストランに行ったのが最初だったと思う。
学科も違うし、その後ウルスラさんは1月ほどイギリスだったかに行っていたりで、暫く会うこともなくなり、更にその後も滅多に会わずに日が過ぎて行った。が、今年の5月位だったろうか、パトリックとサンドイッチ屋に昼食を食べに行った時に、2、3度見かけるようになった。彼女は、同じく物理学科のアリファさんと一緒であった。有りファさんはドイツ人であるが、両親のどちらかがインド人で、インド人(イスラム系)の格好をしている。
さて、ちょっと見かけるようになったかなと思って少しした頃のとある日の夕方、家にいると来客があった。6月初旬であったと思う。誰かなと見てみるとどこかで見かけたような女の人。おや、と思ったら当のウルスラさんではないか。どうして家を知っているかと思ったら、以前奥野先生がすんでいた頃に来たこともあると言う。歩いて来られる位の、結構近くに住んでいたのだ。ウルスラさんはフランスへ、アリファさんは筑波でポスドクとして勤めることになり、コロンバスを離れる日も近く、パーティーを企画しているとの事で誘ってくれたのである。パトリックも誘ってくれというので、一緒に行く事にした。こちらに良く有るスタイルのパーティーで、各自、適当に食べ物飲みものを持参ということなので、私は果物と九州大から在外研究員で来ていた高嶋さん夫妻が帰国後送ってくれたフグの干物を持参。
このパーティーにはドイツ、イギリス、フランス、イタリア、ルーマニア、チェコ、スイス、アメリカ、台湾など様々の十数人。結局夜中の2時まで続いた。パーティーでは各自飲物や食べ物を持ちよるということで、私はフルーツと、この時とばかりに例のフグの干物を持参。恐れおののきながら口にする異国人の顔を拝見しようとのかんがえである。ところが、女性参加者もおり、又女性が主催者であったためか持ちよった料理は多く、冷蔵庫で冷やしていた私の持参した果物にも至らなかったばかりか、帰りには小分けにされたポテトサラダを持ち帰るという有様であった。そんな訳で、反応が楽しみであったフグも手がつかず、残念。唯一の反応といえば、このままではフグまで回らんぞと心配し、食おうと提案した時に、パトリックがもはやその時ではないと言った事が、彼の恐怖心からくる後込みを示していたであろう事だけであった。彼はフグ毒の恐ろしさを知っているようだったが、ウルスラさんは全く知らないようであった。パトリックはそのうちウルスラさんが突然死する可能性もあるのではと思っていたかも知らない。ハンスあたりがいたら、毒性を知りつつも果敢に挑戦するドイツ魂でいい味の反応を見せてくれたと思うのであるが。
その後、ウルスラさんの送別会のパーティーがもう一度開かれ、ウルスラさんはフランスへ。ところが行った先の大学の研究室と、こちらOSUの研究室とかかわりが深いらしく、ウルスラさんは11月から1月程またコロンバスに来ることとなり、今度は歓迎パーティーの種を作ることになる。最初に会ったときには、OSUにしばらくいるが、あんまりパーティーとかの機会がないなんて言っていたウルスラさんではあったが、去る頃になってかなりその機会も増えたようである。私にとっても、この手のパーティーはこれが最初であったと思う。その後いろんなパーティーに行く事になるが、それは又後の機会に譲ることにする。
(Janurary 4, 1999)
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